脳死膵腎移植を受けて〜半年後〜 | - 2011/04/29
- 大分の腎友会誌「ゆふ」に登載されていた一文を筆者と,会の寛大な御許可により転載させていただきます.
運命の電話が来たのは透析の前日でした。出掛ける支度をしている時に突然、電話が鳴ったのです。出られずそのままにしていると、少ししてもう一度呼び出し音が響きました。「○○医大からだよ」と家族から渡された受話器から聞こえてきたのは思いもかけない言葉。見知らぬこの人は何を言っているんだろう?何が何だかよくわからないけど、たぶん…膵腎のドナーが見つかった?移植?…私が膵腎移植できるってこと?! このチャンスを逃したら次はない!即答しなければ次の人に順番が…躊躇いつつも「お願いします」と答えて電話を切りました。午前10時過ぎのことでした。そこから時計はどんどん進んで行くのでした。 糖尿病があると移植は受けられないと思っていました。でも調べていくうちに「膵腎移植」の存在を知り、臓器移植ネットワークへの登録に道が拓けてきたのです。腎臓の登録はすぐに整ったものの、膵臓の登録は医学的な問題でそれから3年以上の時間が必要でした。この空白の3年間がなかったら、と何度思ったかしれません。 「お願いします」と返事はしたものの、気持ちは揺れ動いています。とりあえず病院関係や友達数人にお知らせの電話をすることにしました。私の命の恩人ともいえる人に「行って来い!」と言われたことで私の心は決まりました。当座必要だと思うものをキャリーカートに入れて、いざ病院に向かって出発です。 到着すると待ってましたとばかりに検査の連続です。お昼を食べる暇もなく、院内を回りました。さらに夜には透析があります。思えばこれが「最後の透析」になりました。今のところは… 翌日、いよいよ手術の日を迎えたのですが、開始時刻は朝の時点でまだ不明。臓器の到着を待っての手術になるためです。「今、(膵腎と共に)電車に乗りました」という連絡もまだ他人事のように感じていました。 一通り手術の説明を受けても右の耳から左の耳へ抜けていくようでした。覚えているのはひとつだけ、私が「丁寧に縫ってくださいね」と先生にお願いしたことくらいです。そうこうしているととうとう手術室に呼ばれ、ついに「まな板の上のレシピエント」になりました。 乗り心地の悪い手術台の上で、ドラマのように「1,2,3」と数えるうちに眠くなり…ではなく、すぐに麻酔が効いたようです。そして約6時間後、「終わりましたよ」と言われて手術終了を知りました。次に気づくとそこはICUでした。たくさんの管に繋がれ、身動きはできないわ呼吸は苦しいわで、この数日間が一番辛かった記憶があります。 手術の後はずっと「(経過が)いいですよ」と言われて、無事に6か月を迎えることができました。クレアチニンは最新の検査結果で0.90、インスリンも移植後3か月と少しで離脱することができました。 食事について考える時、今までは必ずIDDMで、透析をしているという前提がありました。だからいわゆる「健康のために食事に気を付けましょう」というのは自分にとって別世界だったのです。でも今は「普通の人」のレベルで話ができるというのはすごいことですよ、と先生に言われました。10歳でIDDMを発症してからそういう立ち位置にいたことがなかった私には、ものすごく新鮮です。ドナーとそのご家族には心からの感謝の気持ちを贈りたいと思います… 移植をして心にいつもあるのは拒絶のこと。気にすればキリがありません。改めて、私はどうして移植がしたかったのか?それは時間を取り戻すために、です。バッグから今まで入っていた荷物を取り出し、新しい明日を詰め込んで、笑いながら明日に向かって歩き続けよう!
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